ハリソン・フォード主演の米国映画「K-19」(2002年)を見たことはありますか。
旧ソ連の原子力潜水艦の原子炉で事故が発生、米ソの核戦争を引き起こしかねない事態を招きます。乗組員数名が炉心溶融を避けるため、数人の兵士が交代で作業に向かいます。
一定時間の作業を終えて戻ってきた兵士は、莫大な放射線を浴びて瀕死の状態、それを見て次の作業に向かった者は、どうせ死ぬのならと、命が絶えるまで作業を続けます。
その決死ぶりに目が奪われる、実話を元にした作品です。(角川書店)
東京電力は12日、福島第一原子力発電所1号機の燃料が、形状を保っておらず、大半が溶けたことを明らかにしました。(asahi.com)
事故発生以来、政府や東京電力の対応が後手に回っているとの批判ありますが、危なくて手出しができないというのは、K-19と同じです。手の出せる範囲で対処しているのでしょうが、事故収束と被害の拡大のスピード競争になっています。
何とかしなければという思いは持てても、死ぬ作業を求めることが、ソ連ではなく、日本で、できるでしょうか。
小沢一郎・元民主党代表は、決死隊による収束に言及したといいます。(asahi.com)(sankei.jp.msn.com)
原発で事故対応に当たる人たちに、海外から賞賛の声が寄せられています。
今回の原発事故ではこれまで、放射線を浴びた事による死者は幸いにも、一人も出ていません。 しかし、楽観はできません。
もし、死刑囚が放射線汚染で危険なエリアでの作業を志願したら...
命を落とすなら、人や社会のために役に立つ死に方を求めるのは、不自然な考えとは言えません。
一方、死刑の原因となった罪の被害者からは、加害者が英雄のような死に方をするのが、許せないかも知れません。
死刑囚が刑場以外の場所で「刑が執行」されることは「想定」されていないでしょう。それに、本来は、法令が定めた場所で執行されるのが望ましいでしょう。
もちろん、福島第一原発での作業で死ぬとは限りませんが、放射線量が多くて、作業が困難なところに、あえて行くようでなければ、塀の外に死刑囚を出す議論は出てこないでしょう。
実現には、法律上の問題、被害者感情、社会的許容、政治判断が課題になりそうです。
特に、最後の政治決断ができるかどうか。いずれの決断をしても、必ず支持と批判にさらされます。その判断の妥当性について、当然、事後検証されることでしょう。
それに耐えうる議論と決断、説明が必要になるのでしょう。
不謹慎でしょうが、頭の体操として考えるのは、意義のあることです。「想定外」を減らすためにも。
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