2011年4月12日火曜日

あの日、その時

あの日、買い物で東京・池袋にある7階建てのビルの5階にいた。
仕事の始まる時刻を考えると、午後3時過ぎには電車に乗りたかった。


その時、足元にかすかな揺れを感じた。数秒経っても修まる気配はなく、「地震だ」とつぶやいた。
近くにいた店員も聞こえたようで、身を潜めて、若干強くなっていた微動を感じ取ろうとしていた。
店員も「地震だ」と声を発した後、建物全体が揺れだした。


関東に住んだことがあれば、ある程度の地震には驚かない。震度4程度なら、次の日の話題にならないことすらある。高層階なら、揺れは増幅される。しかし、それにしても明らかに違った。

店内では、お年寄りの夫婦が柱にもたれかかり、若い女性はしゃがみ込んでいた。

実に長く、揺れ続けたが、その時間を計ってはいない。
初期微動(S波)は2種類感じたし、本震(P波)は数分は続いていたはずだ。
気象庁によると、最大震度5強だった東京・大手町でも、震度4以上が2分10秒続いた、と4月10日付朝日新聞朝刊(東京・最終版)は伝えている。


必要なものを買い終え、建物を出て、地下街に入り、丸ノ内線改札口に向かった。
途中、JR東日本の改札近くを通り、全線が運行を取りやめていう案内が聞こえた。
地下鉄改札に近づくと、駅員が地下鉄も全線が運行を取りやめていること、再開にはかなりの時間を要することを、拡声器を使って伝えていた。


いつもの人混みは、少し様子が違う。
丸ノ内線改札口の横に、列をなして並ぶ人たちがいた。今となってはめずらしい、公衆電話が数台並んでいたからだ。きっと、携帯電話に発信規制がかかっているのだろう。


そんな状況でも、余震があった。震度4程度だろうか。比較的安定な地下でさえ、余震で本格的に揺れた。
鉄道は、二つのレールの幅が一定でないと、脱線してしまう。駅員がいう「かなりの時間」というのが、全線のレール幅を確認することを意味しているのなら、2~3時間で解決できるはずがない。


仕事場のある東京・築地まで、歩き始めた。途中で鉄道が動き出せば儲けものなのだが。


地上に出て、護国寺方向へ歩き始る。銀行のATMが稼働していたので、長丁場に備えようと、現金を確保した。

再び歩き始めてすぐ、何やら上を見上げる人に、次々と出くわす。
仕事中だったであろう人が、ビルから出てきて、何やら上を見上げている。
建物の倒壊を恐れているのだろうか。だったら、ビルの側ではなく、離れたところでなければ、意味がないのに。ガラスが割れて落ちてくることを恐れているのだろうか。だったら、外にいる方が危ないのに。


会社から無事を確認する電子メールが、午後3時過ぎに届いていた。テストや訓練で使ったことはあるが、本番は初めてだった。
テストで登録していたWEBサーバーに、携帯電話から接続を試みるがつながらない。gmailはつながる。
何度か試したが、電池の消耗は致命的なので、とりあえずmailを、社内にいる上司に送信。返信がきたので、こちらの状況を伝えることはできたはずだ。


茗荷谷を過ぎた頃から、「帰宅難民」が現実のものになったことを目の当たりにする。
後楽園に着く頃には、鉄道に収まっていた人たちが、路上にあふれ出ていた。

神保町を過ぎ、つらかったのは寒さ。
買い物後に地下鉄で移動する前提だったので、シャツの上に革ジャンを着ていただけだった。
記憶では、晴れた日だった。それでも、日が陰ればまだ、春は遠い。


竹橋近くで、ヘルメットを被って帰宅する、スーツ姿の男性・女性がいた。落下物警戒なのは分かるが、歩いて帰れる距離なのだろうか。この状況では、帰宅しない方が良い。


有楽町周辺も、鉄道に乗れない人が路上にあふれている。通りがかった銀座のアルマーニが、松坂屋が地震のため、閉店していたことを覚えている。もちろん、他の多くの店舗も。


池袋から約3時間、築地に着いて、その日の当番は免除され、翌日朝からの仕事に回った。



2011年3月11日は、これだけで終わらなかった。